Leftist watching

日本と欧州の左翼の歴史や組織について調べるのが趣味です。備忘録代わりに書いたものを掲載します。

日本共産青年同盟の歴史概説/民青史①

 日本民主青年同盟(民青同盟)の前身にあたる日本共産青年同盟(共青)の歴史を大まかにまとめてみました。

 

◆設立

 国際的な共産主義運動の高まりと青年インターナショナルが広がるなか、1923年2月に日本共産党第2回党大会で、日本共産青年同盟(共青)の設立方針が決定される。徳田球一などの設立委員(注1)のもとで準備が進められ、4月5日には渋谷区の暁民会館にて共青の設立大会が行われた。初代中央委員長には川合義虎、中央委員には川崎悦行、荒井邦之助、高瀬清などが選出された。(注2)

(注1:徳田球一、川合義虎、佐野学、高橋貞樹、川崎悦行、高瀬清、荒井邦之助、川内唯彦、猪俣津南雄)

(注2:川崎悦行、荒井邦之介、高橋貞樹、岸野重春、高野実とする説もある)

 

◆川合義虎と亀戸事件

 この初代委員長川合義虎は、わずか5ヶ月後の亀戸事件で警察に虐殺されている。川合は、1902年生まれの若き旋盤工であり、労働組合友愛会社会主義同盟→弾圧で入獄→南葛労働協会と様々な労働運動を経て、1922年の日本共産党設立と同時に入党した。読み書きができる川合は、共青以外にも南葛労働会(南葛労働協会から改名)の理事やレフトの機関紙『労働組合』の編集長もしており、各地の労働争議の指揮や共青地方組織の設立に東奔西走していた。1923年10月の群馬青年共産党事件、1924年2月の長野青年共産党事件は、川合が指導して作られた共青の地方組織の弾圧事件である。

 1923年9月、関東大震災が起こり、川合は救助活動で3人の子供を瓦礫の下から救い出した。しかし、その救助活動中に、川合を含む若き労働者10人(注3)が警察にとらえられ虐殺された。この10人の青年は、最後が近づいたと知るや「日本革命万歳!」「労働者万歳!」「日本共産党万歳!」と叫んで死んでいったとされている。

(注3:川合義虎21歳、山岸実司20歳、加藤高寿26歳、北島吉蔵19歳、吉村光治23歳、近藤広造19歳、佐藤欣治21歳、鈴木直一23歳、平沢計七34歳、中筋宇八24歳)

 この亀戸事件により、川合は1世紀近くにわたる民青の歴史のなかでもシンボリックな存在であり、現在の民青でも戦前を語るなかで必ず言及される。

 

◆無産青年同盟の結成と共青の再建

 相次ぐ弾圧と虐殺に産声を上げたばかりの共青は瓦解し、第一次共産党事件で同様の状態にあった日本共産党では、公然活動を重視する山川イズムが優勢になり1924年に解党してしまった。生き残った共青の同盟員は、渡辺政之輔や徳田球一による日本共産党「再建ビューロー」の指導を受けて、1925年に「ユース」を設立した。しかしこれは、各地に分散するグループに過ぎなかった。

 治安維持法と普選法の成立もあって、公然活動が重視された結果、1926年に合法的な大衆的無産政党である労働農民党が結成された。ここからのちに日本共産党の山本宣治が当選することになる。ユースとして活動する共青でも公然活動が重視され、1925年7月に、日本労働組合評議会の青年部、全日本農民組合青年部、全国水平社青年同盟、学生活動家が集まって無産青年同盟準備会を結成した。加わった各団体は、いずれも御用組合とは一線を画した闘う無産大衆団体であり、当然各団体内でこれを指揮したのは共青同盟員であった。全国ほとんどの府県に地方組織が確立し、1926年8月、第1回全国大会が開かれて、労農無産青年大衆の戦闘的組織としての全日本無産青年同盟(無青)が成立した。9月には機関紙『青年大衆』を創刊した。無青は、全国各地で労働争議や小作争議の先頭に立ち、短期間で爆発的に同盟員を増やし、1927年11月の第2回全国大会では、1万人を超えるに至った。

 この共青の方針の転換は、(福本イズムからすれば)「前衛」が軽視されている点などの問題をはらみながらも、少数のセクト的な運動から脱し、工場や農村に草の根を張った大衆的青年運動に発展するに至ったということが分かる。ただしいくら大衆的といえども、当然、共青同盟員による無青の指導は(非公然ながらも)大前提であり、現在に至る青年学生運動のひな型(「党-青年同盟―大衆団体」という指導の構図)ができたと言える。

 日本共産党の「再建ビューロー」では、公然活動を重視する「右翼日和見主義」の山川イズムを「克服」する過程で、前衛を重視する福本イズムが台頭し、1926年に日本共産党が再建された。1927年には、「『左翼』日和見主義」の福本イズムの下、セクト的低迷を続ける日本共産党に対し、コミンテルンが両イズムを批判するいわゆる「27年テーゼ」を発表した。日本共産党はこれを受け入れ、1928年1月に「27年テーゼ」に沿う形で「ユース」から日本共産青年同盟が再建された。

 

◆繰り返される弾圧の時代

 1928年3月に、3.15事件が起こり、1600人もの幹部を奪われた日本共産党と再建間もない共青は、壊滅的な打撃を受けた。無青や労働農民党日本労働組合評議会といった合法的な無産組織も解散させられた。同6月、治安維持法が改定され、唯一反対した代議士の山本宣治は刺殺された。以降、治安維持法により10万人が粛清され、うち1700人の命が奪われる暗黒の時代に入る。

 1929年1月、共青は三度再建される。同3月、再建した共青は、『無産青年』と『マルクス主義』に「日本共産青年同盟の任務にかんするテーゼ」を発表した。テーゼには、「強固な地下組織を持って、十分に白色テロと軍事的独裁とに対抗し得る組織の必要」性が解かれ、運動を非公然化せざるを得なくなったことがうかがえる。一方、「共産青年同盟は、非党員の団体である。それは大衆団体である。其は、共産主義の旗印の下に青年を糾合し、その精神を持って鍛え上げる大きな教育的任務を持った大衆団体である」とし、大衆性と前衛性を兼ね備えた青年組織という今の民青につながる基本的性格が確立された。それによりこれまで大衆組織であった無青は再建されず、その任務を共青が担った。一方、共闘すべき相手であった社会民主主義者とその青年組織は、粛清を恐れて弾圧に協力するようになった。

 1929年4月、日本共産党と再建されたばかりの共青は、4.16事件の大弾圧で4000人を失う。幹部を洗いざらい失った日本共産党を再建して中央委員長に就いたのは、田中清玄という若干23歳の学生運動家だった。日本共産党と共青は「ストライキ武装革命に転化せよ」というスローガンの下、「極『左』冒険主義」的ないわゆる「武装共産党」の時代に入り、特高のスパイによりさらに急進化させられた。これにより、また大規模な弾圧に晒され1500人を失うことになった。

 

◆共青の最盛期と終焉

 1931年に共青は、5回目の再建を果たす。何度中央指導部を失おうとも、不屈の闘志で次々と下から新たな幹部が生まれてくるのが共青の強みだった。共青は再建方針で、小ブルジョア出身の学生運動家が中心になりがちであったことを自己批判し、労農青年大衆を中心の組織化を強調した。無青の大衆団体の部分が加わったこともあり、1932年に共青の組織としては戦前史上最大の峰を築いた。

 この時期、学生・兵士・労働者・農民・少年少女といった様々な階級や階層、そして文化・スポーツ・機関紙・国際連帯の分野において目覚ましい運動の発展を遂げた。しかしそれは、1931年の満州事変をはじめとしたきな臭い時代の到来との引き換えであった。日本共産党の『32年テーゼ』は、当面は「社会主義革命」ではなく(社会主義革命への転化の傾向を持つ)「ブルジョア民主主義革命」を目指し、結党以来レーニンから受け継ぐ「二段階革命論」をさらに鮮明にした。その革命は「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者と農民の政府樹立のための人民革命」とし、共青においても、「日本帝国主義の敗北」の日まで闘う指針となった。1932年10月に1500人、1933年後半に4200人が粛清されるなど、断続的に大規模な弾圧が続き、1933年7月に共青の中央委員会が壊滅。塚田大願が再建した中央委員長となったが、内部に潜入したスパイによって捕えられ、この1933年12月9日を最後に共青の全国組織としての運動は終止符を打たれた。これ以降、各地に散らばった少数グループによる散発的な活動が残るのみとなった。

 

次回予定 

 戦前の共青は何を主張して闘ったのか?そして学生や兵士、労働者や農民など様々な階級別の闘いを紹介する予定です。(学生、兵士、労働者、農民、少年少女、文化、スポーツ、新聞、国際連帯など…) 気長にお待ちください。

労農兵の階級闘争における青年の闘い

「共青と文化(機関紙・文学・スポーツ)」

「共青と青年インターナショナルの国際連帯」

 

※参考文献

塚田大願『共産青年同盟の歴史ー青年運動のかがやく伝統ー』日本青年出版社(1968)

日本民主青年同盟中央委員会『物語青年運動史―戦前篇―』日本青年出版社(1967)

日本民主青年同盟中央委員会『日本民主青年同盟の70年』日本民主青年同盟中央委員会(1996)

福家崇洋『1920年代前期における学生運動の諸相』京都大学大学文書館研究紀要(2011)

日本共産党中央委員会日本共産党の70年』新日本出版社(1994)全3巻