Leftist watching

日本と欧州の左翼の歴史や組織について調べるのが趣味です。備忘録代わりに書いたものを掲載します。

戦前の学生運動/民青史②

 学生運動と言えば、1960年代や70年代のヘルメットにゲバ棒「極「左」暴力集団」…じゃなくて新左翼諸党派のイメージが一般的には大きい。ここでは、いずれも出てこないが、戦後の学生運動よりはるかに危険で、多くの学生が自由を求めることと引き換えにその命を奪われていった戦前の学生運動を雑にまとめる。

 

※この記事は前回の記事を読んでいることを前提に書いています。

 

◆学連の結成

 1917年のロシア10月革命は、日本に学生運動の火花を飛ばした。東京帝国大学の新人会(1918年結成)、早稲田大学の民人同盟会と建設者同盟(1919年結成)などは、学生運動黎明期の二大拠点であり、マルクス主義研究や社会主義革命を目指す学生の拠り所となった。日本共産党が結成された1922年の10月革命記念日には、全国の社会主義を探求する学生運動組織が結集し、学生連合会(学連)が結成されるに至る。干渉戦争で荒廃したロシアの飢鍾救済運動の盛り上がりが、学連結成を後押しすることになった。その後追いする形で1923年に共青が結成されるのだが、この戦前版全学連とも言える学連は、戦後と同様に共青同盟員が主導していくことになる。

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(学生連合会 会報第1号1922年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 

早大軍研事件

 1923年、早稲田大学で「軍研事件」が起こる。陸海軍指導の下で早大に軍事研究団を設置したことから、建設者同盟が反対運動を展開。軍による発表会に、早大生がなだれ込み、「軍国主義反対」の怒号とヤジで中止に追い込んだ。右翼学生との衝突に発展し、「血の雨がふった」(注4)とされている。最終的に軍事研究団そのものを解散に追い込んだこの大規模な闘争は、学生の勝利に終わるのと同時に、支配階級に衝撃を与え、第一次共産党事件という大弾圧を招来することになる。またこの闘争の先頭に立ったのは、早大の共青同盟員たちであり、共青として最初の正念場であった。早大ではこうした反軍運動が30年代まで続いていく。

(注4:日本民主青年同盟中央委員会『日本民主青年同盟の70年』がそう表現している)

 

学生運動の興隆と治安維持法

 1924年、学生連合会は第1回学連大会を開催し、学生社会科学連合会(学連)に発展。地方組織を確立した。当時の拠点校と会員数は以下の通り。

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出典:福家崇洋『1920年代前期における学生運動の諸相』

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(学生社会科学連合会 会報第1号1925年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 1925年には、治安維持法反対運動を展開するとともに、「プロレタリア社会科学の研究、普及、労働者教育運動」を目的とした「学連テーゼ」を採択した。1926年には京都学連事件が起こり、学連関西連合会を中心に学生38人が検挙される。その多くが京都帝国大学社会科学研究会(1923年結成)と同志社大学社会科学研究会の会員だった。治安維持法の適用第1号であり、研究会の結成そのものが「犯罪」であった。学術研究が制限されていくなかで、1926年、全国の学生により全日本学生自由擁護同盟が結成される。行動綱領では、教育の民主化、自治及び自治会の確立、学生生協の設立、学費値下げ、学生生活の経済的改善、学生の言論の自由18歳選挙権政治結社の自由、スポーツの大衆化などが掲げられた。現在では憲法で保障されていたり、当たり前になっていたりすることが、当時は犯罪とされていた。

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(治安維持法に反対する学生デモ 1924年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 1928年、3.15事件が起こり、陸軍士官学校を含む32大学146人が検挙される。これだけ広範な大学から検挙者が出たことからも、粘り強い学生運動の広がりが見て取れる。しかし、この痛手により学連は以降非公然活動を余儀なくされた。そればかりか、日本の学生運動は共青の方針に翻弄されていくことになる。

 

◆弾圧と混乱

 1929年、共青が無青の大衆団体としての性格を吸収した「日本共産青年同盟の任務にかんするテーゼ」と同時に、「革命的青年学生の任務について」(学生テーゼ)が『無産青年』に発表された。学生テーゼでは、当時の学連が「なんら共産主義的原則綱領を前提としないために、半共産主義的なあいまいな組織へゆがめられて」おり、「学生のみの独自の全国的組織であったであったために、むしろ孤立し、戦闘的学生を不当に弾圧の危険にさらし、プロレタリア運動にも致命的損失をあたえていた」と指摘した。そして「革命的学生の要求を満し得るものは、言うまでもなく党及び同盟である。之によってのみ正しくプロレタリアに協同し、真にプロレタリア的たりうるのみならず、学問における一切の政治的、経済的、文化的闘争をも真にプロレタリアの立場から遂行し、若しくは、正しい且つ時々に於いて中心の問題と闘争から逸脱せしめることなく、最大限に学生に影響を及し、最も有効に動員しうるものである。(中略)したがって今や革命的学生は厳密なるプロレタリアの指導の下に、直接には共産青年同盟の下に立たねばならぬ」と主張した。ここでいう「厳密なるプロレタリアの指導の下」とは、「日本共産党の指導の下」ということになる。左翼の古典的言い回しは変化していくが、この考え方と指導の構図は、戦後においても学生運動の原則となった。こうして学連は解散し、学連にいた学生はこぞって共青同盟員となった。

 共青では、学生の比率が急増し、前章(日本共産青年同盟の歴史概説/民青史②)で説明した少ブルジョア的な「武装共産党」の時代を引き起こす。この教訓から1930年に学生分野は再度切り離され、「エージェント・グループ」に再編されたが、これに対して批判が巻き起こった。共青は『レーニン青年』で、一般学生と革命的学生を混同して革命的学生までも同盟から排除したことは「日和見主義的誤謬である」と自己批判し、再び学生の組織化を図った。この混乱を見かねた日本共産党中央委員会は直接『学校に於けるエージェント・グループに関する決議』を発表。多数の労働者の組織化、小ブルジョア極左主義の克服、という正しい方針を取ったにもかかわらず、それが機械的に学生を同盟から除外するという方法によって実現させようとした結果、同盟の学生層に対する活動を弱めたと批判した。

 

◆滝川事件と学生運動の終わり

 1932年、短い最盛期を迎えた共青の学生同盟員たちは、学生生協を発展させた。この東京学生消費組合は、各大学に支部を持ち、1933年には5720人を組織するまでに成長する。

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(東京学生消費組合設立当初の赤門支部売店 1929年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 その年、共青最後の大規模な学生運動となる京大滝川事件が起こる。5月、天皇制政府は、法学部滝川幸辰教授の刑法学説を「赤化思想」とし、辞職を強要。大学の自治と学問の自由を護るべく、教授会は全員辞表を出して抵抗し、学生は各学部で学生大会を開き抗議した。6月の反対集会に全学生7000人のうち5000人が結集し、全国の大学でも同様の集会が開かれた。検挙された学生は300人に上る。戦争とファシズムに突入するしつつある日本において、最後に灯された自由の炎だった。12月に全国組織としての共青が崩壊した後も、各地の大学で共青の学生運動が確認されている。

 

◆まとめ

 戦後の日本共産党・民青同盟・全学連の関係性は、戦前において既にひな型ができていたことが分かる。戦後の学生運動と大きく違うところは、多くの学生が自由を求めることと引き換えにその命を奪われていったことである。大学進学数が10万人にも満たない時代、戦後のものとは比べ物にならない弾圧と隣り合わせの中で、これだけ多くの学生が革命の戦列に加わり、学生運動が闘われていたことはあまり知られていない。

  また、(民主的な方の)全学連が発行した『正義と真理の旗を掲げて』において、学連を自らの歴史の出発点として描いていることからも、その歴史的継承を自負していたことも分かる。

 なお、厳密に言えば、希望者加盟制の社研の連合体であった学連と、全員加盟制の自治会の連合体である全学連では性格が異なる。学連と同様の戦後の組織としては、全国学生社会科学系研究会連絡会議(全国社研連/全社連)が現在でも存在し、全国の社研が集まって論文の発表討論会やフィールドワークをしている。全国組織としてはこちらの方が活発なのかもしれない。

 

次回「労農兵の階級闘争における青年の闘い」

 

※参考文献

全日本学生自治会総連合中央執行委員会『正義と真理の旗をかかげて』白石書店(1979)

福家崇洋『1920年代前期における学生運動の諸相』京都大学大学文書館研究紀要(2011)

塚田大願『共産青年同盟の歴史ー青年運動のかがやく伝統ー』日本青年出版社(1968)

日本民主青年同盟中央委員会『日本民主青年同盟の70年』日本民主青年同盟中央委員会(1996)