Leftist watching

日本と欧州の左翼の歴史や組織について調べるのが趣味です。備忘録代わりに書いたものを掲載します。

民青研究のすすめ

民青研究のすすめ

 近年、多くの人が「共産趣味」を楽しむようになりました。当時のヘルメットやビラを収集する人、左翼党派の歴史を調べる人、出版物を買いあさる人、実際に接触してみる人、海外の共産趣味も含めて、ネット上にはたくさんの共産趣味者がみられるようになりました。

 しかし、多くの人がニセ「左翼」暴力集団…いえ新左翼党派ばかりに関心を持ち、民青はマイナージャンルで、その実態を知る人は残念ながらとても少ないです。この記事は、民青研究の面白さを、私が収集した書籍のコレクションも交えながら紹介するものです。

f:id:Euronippocommunism:20190215013715p:plain

日本民主青年同盟中央委員会『写真集 青年同盟65年のあゆみ』(1988年)

【①入門編】

 まず、民青を簡単に説明しましょう。

 正式名称は日本民主青年同盟と言い、1923年に日本共産青年同盟(共青)として設立される。戦前から現在に至るまで、日本の学生運動・青年運動の組織としては最大規模を誇り、最盛期には20万人、現在でも1万人の同盟員を有する。同盟員が先頭に立って組織した学生運動組織である全学連は、1977年に日本の学生の半数近い100万人にまで達した。このスケールの大きさは、新左翼党派では味わうことはできないし、この重厚感が香ばしい。運動面では民主主義・平和・国民の生活向上を目指すとともに、思想面ではマルクスエンゲルスレーニンの名を挙げて科学的社会主義(昔で言うマルクスレーニン主義)を学ぶことを目的としている。日本共産党との関係は、ソ連共産党とコムソモールの関係を模倣したもので、現在は「相談相手」と明記されている。

 

 そして趣味者におすすめ(したい)の入門書はこちら。

日本民主青年同盟中央委員会日本民主青年同盟の70年』(1996年)

 民青のなりたちや歴史の全体像をつかむのに最適の書籍。しかしながら、発売から23年がたっており、民主書店でも扱われず、残る在庫を内々で販売しているだけ。古書店で入手するか、民青から直接購入する以外には方法はないが、入門としては最適なので、入手できそうなら一番におすすめする…したい書籍である。

f:id:Euronippocommunism:20190215015541j:plain

日本民主青年同盟中央委員会『写真集 青年同盟65年のあゆみ』(1988年)

 視覚的に民青の姿をイメージしやすく、香ばしい写真もたくさんあるので、こちらも初心者におすすめしたい書籍。付録の機関紙復刻版や巻末の年表も見物。これも絶版だが、古書通販サイトの「日本の古本屋」で見かけることがある。

f:id:Euronippocommunism:20190215020539j:plain

f:id:Euronippocommunism:20190215020606j:plain

【②戦前編】

 民青は1923年に日本共産青年同盟(共青)として結成され、戦前の治安維持法下での活動は、常に死と隣り合わせだった。(治安維持法成立以前でさえ!)初代委員長の川合義虎は、結成5ヶ月後の関東大震災で救助活動中に警察が拘束し、20代前後の10人の仲間とともに虐殺された。射殺直前に「日本革命万歳!労働者万歳!日本共産党万歳!」と叫んだとされる。治安維持法の犠牲となった10万人の逮捕者と1700人の奪われた命の中には、多くの共青同盟員が含まれていた。

 そんな困難な中でも運動は力強くすすめられ、日本労働組合評議会(労働運動)、全日本農民組合(小作争議)、全国水平社青年同盟(部落解放運動)、学生社会科学連合会(学生運動)で中心的な役割を果たしたのが彼らである。共青の合法組織である全日本無産青年同盟は、1万人をこえる青年を組織し、機関紙は、週5日刊の3色刷りで数万部に達した。特に学生運動の勃興は目覚ましく、学生社会科学連合会(学連)が全国の大学で学園闘争を巻き起こす。京大滝川事件では、全学生7000人中5000人が反対集会に結集した。のちの全学連は、この学連の系譜を引くもので、自らの歴史の一部と位置付けていた。

f:id:Euronippocommunism:20171221011704j:plain

治安維持法に反対する学生デモ(『正義と真理の旗をかかげて』)

 また特質すべきは軍隊の中での運動で、陸軍では連隊ごとに、海軍では艦ごとに細胞(支部のこと)が結成され、盛んに反戦運動がなされた。特に、陸奥長門の両戦艦や陸軍士官学校では、多くの共青同盟員がいたことが戦後になって分かっている。

 

戦前の共青について調べたい人におすすめしたい書籍はこちら!

塚田大願『共産青年同盟の歴史―青年運動のかがやく伝統―』日本青年出版社(1968)

戦前の共青の最後の委員長だった塚田大願が獄中で生き延び、戦後になって共青の歴史をまとめたもの。組織の壊滅と再建をひたすら繰り返す並々ならぬ苦闘が一冊の新書にまとめられている。スポーツから機関紙までジャンル別にまとめられた運動分野の多彩さがポイント。

f:id:Euronippocommunism:20190215015524j:plain

日本民主青年同盟中央委員会出版事業部『物語青年運動史―戦前編―』日本青年出版社(1967)

 こちらは、戦前に共青で活動した人たちから直接話を聞き取ったオーラルヒストリー。総勢15人が自分の経験したことをそれぞれ語ります。ちなみに、これらを発行している青年出版社は、民青専属の出版社でした。(解散済)

f:id:Euronippocommunism:20190215015531j:plain

田中悠・志位和夫『共青創立90周年記念講演会』日本民主青年同盟中央委員会(2013)

 創立90周年を記念して行われた民青同盟の田中悠委員長と日本共産党志位和夫委員長の講演内容をまとめた小冊子。新入同盟員向けの内容で、半分ほどを共青について割いている。

f:id:Euronippocommunism:20190215015546j:plain

戦前編についてはこちらを参考にしてください

leftistwatching.hatenablog.jp

leftistwatching.hatenablog.jp

 

次回紹介目次(予定)

学生運動

④新日和見主義事件編

⑤出版物編

⑥究極の民青研究とは?

戦前の学生運動/民青史②

 学生運動と言えば、1960年代や70年代のヘルメットにゲバ棒「極「左」暴力集団」…じゃなくて新左翼諸党派のイメージが一般的には大きい。ここでは、いずれも出てこないが、戦後の学生運動よりはるかに危険で、多くの学生が自由を求めることと引き換えにその命を奪われていった戦前の学生運動を雑にまとめる。

 

※この記事は前回の記事を読んでいることを前提に書いています。

 

◆学連の結成

 1917年のロシア10月革命は、日本に学生運動の火花を飛ばした。東京帝国大学の新人会(1918年結成)、早稲田大学の民人同盟会と建設者同盟(1919年結成)などは、学生運動黎明期の二大拠点であり、マルクス主義研究や社会主義革命を目指す学生の拠り所となった。日本共産党が結成された1922年の10月革命記念日には、全国の社会主義を探求する学生運動組織が結集し、学生連合会(学連)が結成されるに至る。干渉戦争で荒廃したロシアの飢鍾救済運動の盛り上がりが、学連結成を後押しすることになった。その後追いする形で1923年に共青が結成されるのだが、この戦前版全学連とも言える学連は、戦後と同様に共青同盟員が主導していくことになる。

f:id:Euronippocommunism:20171221011652j:plain

(学生連合会 会報第1号1922年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 

早大軍研事件

 1923年、早稲田大学で「軍研事件」が起こる。陸海軍指導の下で早大に軍事研究団を設置したことから、建設者同盟が反対運動を展開。軍による発表会に、早大生がなだれ込み、「軍国主義反対」の怒号とヤジで中止に追い込んだ。右翼学生との衝突に発展し、「血の雨がふった」(注4)とされている。最終的に軍事研究団そのものを解散に追い込んだこの大規模な闘争は、学生の勝利に終わるのと同時に、支配階級に衝撃を与え、第一次共産党事件という大弾圧を招来することになる。またこの闘争の先頭に立ったのは、早大の共青同盟員たちであり、共青として最初の正念場であった。早大ではこうした反軍運動が30年代まで続いていく。

(注4:日本民主青年同盟中央委員会『日本民主青年同盟の70年』がそう表現している)

 

学生運動の興隆と治安維持法

 1924年、学生連合会は第1回学連大会を開催し、学生社会科学連合会(学連)に発展。地方組織を確立した。当時の拠点校と会員数は以下の通り。

f:id:Euronippocommunism:20171224185600p:plain

出典:福家崇洋『1920年代前期における学生運動の諸相』

f:id:Euronippocommunism:20171221011658j:plain

(学生社会科学連合会 会報第1号1925年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 1925年には、治安維持法反対運動を展開するとともに、「プロレタリア社会科学の研究、普及、労働者教育運動」を目的とした「学連テーゼ」を採択した。1926年には京都学連事件が起こり、学連関西連合会を中心に学生38人が検挙される。その多くが京都帝国大学社会科学研究会(1923年結成)と同志社大学社会科学研究会の会員だった。治安維持法の適用第1号であり、研究会の結成そのものが「犯罪」であった。学術研究が制限されていくなかで、1926年、全国の学生により全日本学生自由擁護同盟が結成される。行動綱領では、教育の民主化、自治及び自治会の確立、学生生協の設立、学費値下げ、学生生活の経済的改善、学生の言論の自由18歳選挙権政治結社の自由、スポーツの大衆化などが掲げられた。現在では憲法で保障されていたり、当たり前になっていたりすることが、当時は犯罪とされていた。

f:id:Euronippocommunism:20171221011704j:plain

(治安維持法に反対する学生デモ 1924年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 1928年、3.15事件が起こり、陸軍士官学校を含む32大学146人が検挙される。これだけ広範な大学から検挙者が出たことからも、粘り強い学生運動の広がりが見て取れる。しかし、この痛手により学連は以降非公然活動を余儀なくされた。そればかりか、日本の学生運動は共青の方針に翻弄されていくことになる。

 

◆弾圧と混乱

 1929年、共青が無青の大衆団体としての性格を吸収した「日本共産青年同盟の任務にかんするテーゼ」と同時に、「革命的青年学生の任務について」(学生テーゼ)が『無産青年』に発表された。学生テーゼでは、当時の学連が「なんら共産主義的原則綱領を前提としないために、半共産主義的なあいまいな組織へゆがめられて」おり、「学生のみの独自の全国的組織であったであったために、むしろ孤立し、戦闘的学生を不当に弾圧の危険にさらし、プロレタリア運動にも致命的損失をあたえていた」と指摘した。そして「革命的学生の要求を満し得るものは、言うまでもなく党及び同盟である。之によってのみ正しくプロレタリアに協同し、真にプロレタリア的たりうるのみならず、学問における一切の政治的、経済的、文化的闘争をも真にプロレタリアの立場から遂行し、若しくは、正しい且つ時々に於いて中心の問題と闘争から逸脱せしめることなく、最大限に学生に影響を及し、最も有効に動員しうるものである。(中略)したがって今や革命的学生は厳密なるプロレタリアの指導の下に、直接には共産青年同盟の下に立たねばならぬ」と主張した。ここでいう「厳密なるプロレタリアの指導の下」とは、「日本共産党の指導の下」ということになる。左翼の古典的言い回しは変化していくが、この考え方と指導の構図は、戦後においても学生運動の原則となった。こうして学連は解散し、学連にいた学生はこぞって共青同盟員となった。

 共青では、学生の比率が急増し、前章(日本共産青年同盟の歴史概説/民青史②)で説明した少ブルジョア的な「武装共産党」の時代を引き起こす。この教訓から1930年に学生分野は再度切り離され、「エージェント・グループ」に再編されたが、これに対して批判が巻き起こった。共青は『レーニン青年』で、一般学生と革命的学生を混同して革命的学生までも同盟から排除したことは「日和見主義的誤謬である」と自己批判し、再び学生の組織化を図った。この混乱を見かねた日本共産党中央委員会は直接『学校に於けるエージェント・グループに関する決議』を発表。多数の労働者の組織化、小ブルジョア極左主義の克服、という正しい方針を取ったにもかかわらず、それが機械的に学生を同盟から除外するという方法によって実現させようとした結果、同盟の学生層に対する活動を弱めたと批判した。

 

◆滝川事件と学生運動の終わり

 1932年、短い最盛期を迎えた共青の学生同盟員たちは、学生生協を発展させた。この東京学生消費組合は、各大学に支部を持ち、1933年には5720人を組織するまでに成長する。

f:id:Euronippocommunism:20171221011709j:plain

(東京学生消費組合設立当初の赤門支部売店 1929年/出典『正義と真理の旗をかかげて』)

 その年、共青最後の大規模な学生運動となる京大滝川事件が起こる。5月、天皇制政府は、法学部滝川幸辰教授の刑法学説を「赤化思想」とし、辞職を強要。大学の自治と学問の自由を護るべく、教授会は全員辞表を出して抵抗し、学生は各学部で学生大会を開き抗議した。6月の反対集会に全学生7000人のうち5000人が結集し、全国の大学でも同様の集会が開かれた。検挙された学生は300人に上る。戦争とファシズムに突入するしつつある日本において、最後に灯された自由の炎だった。12月に全国組織としての共青が崩壊した後も、各地の大学で共青の学生運動が確認されている。

 

◆まとめ

 戦後の日本共産党・民青同盟・全学連の関係性は、戦前において既にひな型ができていたことが分かる。戦後の学生運動と大きく違うところは、多くの学生が自由を求めることと引き換えにその命を奪われていったことである。大学進学数が10万人にも満たない時代、戦後のものとは比べ物にならない弾圧と隣り合わせの中で、これだけ多くの学生が革命の戦列に加わり、学生運動が闘われていたことはあまり知られていない。

  また、(民主的な方の)全学連が発行した『正義と真理の旗を掲げて』において、学連を自らの歴史の出発点として描いていることからも、その歴史的継承を自負していたことも分かる。

 なお、厳密に言えば、希望者加盟制の社研の連合体であった学連と、全員加盟制の自治会の連合体である全学連では性格が異なる。学連と同様の戦後の組織としては、全国学生社会科学系研究会連絡会議(全国社研連/全社連)が現在でも存在し、全国の社研が集まって論文の発表討論会やフィールドワークをしている。全国組織としてはこちらの方が活発なのかもしれない。

 

次回「労農兵の階級闘争における青年の闘い」

 

※参考文献

全日本学生自治会総連合中央執行委員会『正義と真理の旗をかかげて』白石書店(1979)

福家崇洋『1920年代前期における学生運動の諸相』京都大学大学文書館研究紀要(2011)

塚田大願『共産青年同盟の歴史ー青年運動のかがやく伝統ー』日本青年出版社(1968)

日本民主青年同盟中央委員会『日本民主青年同盟の70年』日本民主青年同盟中央委員会(1996)

日本共産青年同盟の歴史概説/民青史①

 日本民主青年同盟(民青同盟)の前身にあたる日本共産青年同盟(共青)の歴史を大まかにまとめてみました。

 

◆設立

 国際的な共産主義運動の高まりと青年インターナショナルが広がるなか、1923年2月に日本共産党第2回党大会で、日本共産青年同盟(共青)の設立方針が決定される。徳田球一などの設立委員(注1)のもとで準備が進められ、4月5日には渋谷区の暁民会館にて共青の設立大会が行われた。初代中央委員長には川合義虎、中央委員には川崎悦行、荒井邦之助、高瀬清などが選出された。(注2)

(注1:徳田球一、川合義虎、佐野学、高橋貞樹、川崎悦行、高瀬清、荒井邦之助、川内唯彦、猪俣津南雄)

(注2:川崎悦行、荒井邦之介、高橋貞樹、岸野重春、高野実とする説もある)

 

◆川合義虎と亀戸事件

 この初代委員長川合義虎は、わずか5ヶ月後の亀戸事件で警察に虐殺されている。川合は、1902年生まれの若き旋盤工であり、労働組合友愛会社会主義同盟→弾圧で入獄→南葛労働協会と様々な労働運動を経て、1922年の日本共産党設立と同時に入党した。読み書きができる川合は、共青以外にも南葛労働会(南葛労働協会から改名)の理事やレフトの機関紙『労働組合』の編集長もしており、各地の労働争議の指揮や共青地方組織の設立に東奔西走していた。1923年10月の群馬青年共産党事件、1924年2月の長野青年共産党事件は、川合が指導して作られた共青の地方組織の弾圧事件である。

 1923年9月、関東大震災が起こり、川合は救助活動で3人の子供を瓦礫の下から救い出した。しかし、その救助活動中に、川合を含む若き労働者10人(注3)が警察にとらえられ虐殺された。この10人の青年は、最後が近づいたと知るや「日本革命万歳!」「労働者万歳!」「日本共産党万歳!」と叫んで死んでいったとされている。

(注3:川合義虎21歳、山岸実司20歳、加藤高寿26歳、北島吉蔵19歳、吉村光治23歳、近藤広造19歳、佐藤欣治21歳、鈴木直一23歳、平沢計七34歳、中筋宇八24歳)

 この亀戸事件により、川合は1世紀近くにわたる民青の歴史のなかでもシンボリックな存在であり、現在の民青でも戦前を語るなかで必ず言及される。

 

◆無産青年同盟の結成と共青の再建

 相次ぐ弾圧と虐殺に産声を上げたばかりの共青は瓦解し、第一次共産党事件で同様の状態にあった日本共産党では、公然活動を重視する山川イズムが優勢になり1924年に解党してしまった。生き残った共青の同盟員は、渡辺政之輔や徳田球一による日本共産党「再建ビューロー」の指導を受けて、1925年に「ユース」を設立した。しかしこれは、各地に分散するグループに過ぎなかった。

 治安維持法と普選法の成立もあって、公然活動が重視された結果、1926年に合法的な大衆的無産政党である労働農民党が結成された。ここからのちに日本共産党の山本宣治が当選することになる。ユースとして活動する共青でも公然活動が重視され、1925年7月に、日本労働組合評議会の青年部、全日本農民組合青年部、全国水平社青年同盟、学生活動家が集まって無産青年同盟準備会を結成した。加わった各団体は、いずれも御用組合とは一線を画した闘う無産大衆団体であり、当然各団体内でこれを指揮したのは共青同盟員であった。全国ほとんどの府県に地方組織が確立し、1926年8月、第1回全国大会が開かれて、労農無産青年大衆の戦闘的組織としての全日本無産青年同盟(無青)が成立した。9月には機関紙『青年大衆』を創刊した。無青は、全国各地で労働争議や小作争議の先頭に立ち、短期間で爆発的に同盟員を増やし、1927年11月の第2回全国大会では、1万人を超えるに至った。

 この共青の方針の転換は、(福本イズムからすれば)「前衛」が軽視されている点などの問題をはらみながらも、少数のセクト的な運動から脱し、工場や農村に草の根を張った大衆的青年運動に発展するに至ったということが分かる。ただしいくら大衆的といえども、当然、共青同盟員による無青の指導は(非公然ながらも)大前提であり、現在に至る青年学生運動のひな型(「党-青年同盟―大衆団体」という指導の構図)ができたと言える。

 日本共産党の「再建ビューロー」では、公然活動を重視する「右翼日和見主義」の山川イズムを「克服」する過程で、前衛を重視する福本イズムが台頭し、1926年に日本共産党が再建された。1927年には、「『左翼』日和見主義」の福本イズムの下、セクト的低迷を続ける日本共産党に対し、コミンテルンが両イズムを批判するいわゆる「27年テーゼ」を発表した。日本共産党はこれを受け入れ、1928年1月に「27年テーゼ」に沿う形で「ユース」から日本共産青年同盟が再建された。

 

◆繰り返される弾圧の時代

 1928年3月に、3.15事件が起こり、1600人もの幹部を奪われた日本共産党と再建間もない共青は、壊滅的な打撃を受けた。無青や労働農民党日本労働組合評議会といった合法的な無産組織も解散させられた。同6月、治安維持法が改定され、唯一反対した代議士の山本宣治は刺殺された。以降、治安維持法により10万人が粛清され、うち1700人の命が奪われる暗黒の時代に入る。

 1929年1月、共青は三度再建される。同3月、再建した共青は、『無産青年』と『マルクス主義』に「日本共産青年同盟の任務にかんするテーゼ」を発表した。テーゼには、「強固な地下組織を持って、十分に白色テロと軍事的独裁とに対抗し得る組織の必要」性が解かれ、運動を非公然化せざるを得なくなったことがうかがえる。一方、「共産青年同盟は、非党員の団体である。それは大衆団体である。其は、共産主義の旗印の下に青年を糾合し、その精神を持って鍛え上げる大きな教育的任務を持った大衆団体である」とし、大衆性と前衛性を兼ね備えた青年組織という今の民青につながる基本的性格が確立された。それによりこれまで大衆組織であった無青は再建されず、その任務を共青が担った。一方、共闘すべき相手であった社会民主主義者とその青年組織は、粛清を恐れて弾圧に協力するようになった。

 1929年4月、日本共産党と再建されたばかりの共青は、4.16事件の大弾圧で4000人を失う。幹部を洗いざらい失った日本共産党を再建して中央委員長に就いたのは、田中清玄という若干23歳の学生運動家だった。日本共産党と共青は「ストライキ武装革命に転化せよ」というスローガンの下、「極『左』冒険主義」的ないわゆる「武装共産党」の時代に入り、特高のスパイによりさらに急進化させられた。これにより、また大規模な弾圧に晒され1500人を失うことになった。

 

◆共青の最盛期と終焉

 1931年に共青は、5回目の再建を果たす。何度中央指導部を失おうとも、不屈の闘志で次々と下から新たな幹部が生まれてくるのが共青の強みだった。共青は再建方針で、小ブルジョア出身の学生運動家が中心になりがちであったことを自己批判し、労農青年大衆を中心の組織化を強調した。無青の大衆団体の部分が加わったこともあり、1932年に共青の組織としては戦前史上最大の峰を築いた。

 この時期、学生・兵士・労働者・農民・少年少女といった様々な階級や階層、そして文化・スポーツ・機関紙・国際連帯の分野において目覚ましい運動の発展を遂げた。しかしそれは、1931年の満州事変をはじめとしたきな臭い時代の到来との引き換えであった。日本共産党の『32年テーゼ』は、当面は「社会主義革命」ではなく(社会主義革命への転化の傾向を持つ)「ブルジョア民主主義革命」を目指し、結党以来レーニンから受け継ぐ「二段階革命論」をさらに鮮明にした。その革命は「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者と農民の政府樹立のための人民革命」とし、共青においても、「日本帝国主義の敗北」の日まで闘う指針となった。1932年10月に1500人、1933年後半に4200人が粛清されるなど、断続的に大規模な弾圧が続き、1933年7月に共青の中央委員会が壊滅。塚田大願が再建した中央委員長となったが、内部に潜入したスパイによって捕えられ、この1933年12月9日を最後に共青の全国組織としての運動は終止符を打たれた。これ以降、各地に散らばった少数グループによる散発的な活動が残るのみとなった。

 

次回予定 

 戦前の共青は何を主張して闘ったのか?そして学生や兵士、労働者や農民など様々な階級別の闘いを紹介する予定です。(学生、兵士、労働者、農民、少年少女、文化、スポーツ、新聞、国際連帯など…) 気長にお待ちください。

労農兵の階級闘争における青年の闘い

「共青と文化(機関紙・文学・スポーツ)」

「共青と青年インターナショナルの国際連帯」

 

※参考文献

塚田大願『共産青年同盟の歴史ー青年運動のかがやく伝統ー』日本青年出版社(1968)

日本民主青年同盟中央委員会『物語青年運動史―戦前篇―』日本青年出版社(1967)

日本民主青年同盟中央委員会『日本民主青年同盟の70年』日本民主青年同盟中央委員会(1996)

福家崇洋『1920年代前期における学生運動の諸相』京都大学大学文書館研究紀要(2011)

日本共産党中央委員会日本共産党の70年』新日本出版社(1994)全3巻